伍井芳夫大尉は32歳最年長で特攻隊員として出撃しました。
また、3人のお子さんを持つお父さんでもあったようです。
そこで今回は伍井芳夫大尉のWiki経歴プロフィールについて以下の通りまとめてみました。
伍井芳夫のプロフィール
まずは、簡単に伍井芳夫大尉のプロフィールを以下の通りまとめてみました。
名前 | 伍井 芳夫(いつい よしお) |
生年月日 | 1912年7月21日 |
出身地 | 北埼玉郡豊野村 |
兄弟構成 | 6人兄弟の次男 |
部活 | バスケットボール部 |
伍井芳夫大尉は自然に恵まれた環境で育ち、時折上空に飛行機が音を立てて飛んでくるといつも空を見上げて眺めていたそうです。
また、伍井芳夫大尉は中学時代、バスケットボール部に所属されていたようです。
キャプテンとして活躍していたそうです!
伍井芳夫の経歴
伍井芳夫大尉の経歴を簡単にまとめると以下の通りとなります。
- 1932年1月:中学卒業後、少年飛行兵を志願し、飛行第五連隊に入営。
- 1932年9月:下士官候補生として所沢陸軍飛行学校に入校。
- 1933年8月:飛行第三連隊専属。
- 1935年4月:操縦学生として所沢陸軍飛行学校に分遣。
- 1937年3月:熊谷陸軍飛行学校附を命じられる(航空本部)。
- 1938年12月:任航空兵准尉となる。
飛行機乗りになる夢が叶ったのは26歳の時だったそうです。
その後、着実に経験を積まれ、教員になるまで成長されました。
伍井芳夫の家族構成
伍井芳夫大尉の家族構成をまとめると以下5人家族となります。
- 本人(明治32年生まれ)
- 妻(大正7年生まれ)
- 長女(昭和16年生まれ)
- 次女(昭和18年生まれ)
- 長男(昭和19年生まれ)
しかし、伍井芳夫大尉が特攻出撃して3カ月余り過ぎた20年7月21日、長男が自家中毒症で息を引き取ってしまったそうです。
それでも伍井芳夫大尉の奥様は2人の娘を育てるため、夫と息子を失った悲しみを乗り越えて来られたそうです。
伍井芳夫の人柄
伍井芳夫の人柄が分かるエピソードをまとめてみました。
①思いやりのある父親だった!
②二回旋回し翼を振ってお別れ
③若い者だけにこの重圧を背負わせてはならないと感じていた
①思いやりのある父親だった!
伍井芳夫大尉は大阪に配属されていた際、当時1歳であった長女が窓から落ちると危ないからと柵を作ったそうです。
このエピソードを聞いた時、とても家族思いのお父さんだなと感じました。
②二回旋回し翼を振ってお別れ
1945年3月27日午前8時30分、伍井芳夫大尉は栃木県の壬生飛行場を発ち、北埼玉の上空を飛び、翼を振り別れを告げたそうです。
前もって通過する時刻を知らされていたため近所の人たちや親族の方々が外に出て待っていると伍井芳夫大尉の飛行機が上空に飛来し、二回旋回し家族に翼を振りながら西の空に機影は消えていったそうです。
この”二回旋回し家族に翼を振りながら西の空に機影は消えていった”というエピソードに伍井芳夫大尉の優しさだけでなく、まだ残されている家族や周りの人たちに対する名残惜しさのようなものもあるように感じました。
若い者だけにこの重圧を背負わせてはならないと感じていた
伍井芳夫大尉は自分よりはるかに操縦経験の乏しい人たちが次々に苛烈な戦場に送り出され、あるいは特攻隊の編成に加えられるのを間近で見て、教育の場にずっといられなかったそうです。
年齢、独身、長男でないことなどが特攻隊員選抜の基準でしたが、若い者だけにこの重圧を負わせたくない、また妻子4人を残していくことは大変辛いが大義のために行くと決意されたそうです。
とても責任感のある方なのだなと感じました。
まとめ
今回は伍井芳夫大尉のWiki経歴プロフィールについてまとめてみました。
私自身、子供がいる身なので伍井芳夫大尉やその家族の方々につい感情移入してしまいこのような記事を書いてしまいました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
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